さよなら 天使になったナタリー
2026 OCT 12 9:09:15 am by 東 賢太郎
ウエストサイド・ストーリーは白人不良グループ「ジェッツ」とプエルトリカンの「シャークス」の縄張り争いを背景とする恋愛物語だ。ともすると、目下の世界で頭痛の種になっている移民問題に見えてしまうがそれだけではない。プエルトリコ人にとってもアメリカはアメリカで家系図がどうあろうと自分の国であり、簡易にそうなれるように合法化されている国はアメリカだけであり、国民ほぼ皆移民の国であるゆえに後か先かより民族、宗教のショバ争いが歴史を紡いできていると考えるべきユニークな存在だからだ。本作のプロットはその縮図なのである。音楽について指摘すべきことはここに書いたのでバーンスタイン”ウエストサイドストーリー(West Side Story)” (1)、今回は別なアングルから魅力を探ってみたい。
闘争する2つの集団があって、それぞれに属していて本来は敵である男と女がはからずも愛しあってしまう。集団の対立というものは政治だ。若い男女の恋情はそんなものには縛られない。いかにも人間の本性に根ざしてリベラルで清純で奔放で不屈であり、多くの人は一も二もなくふたりに同情し、それを妨げる政治が汚いと感じる。そして禁じられた恋は政治の不条理によって蹂躙され、悲劇に終わるのだ。言うまでもなくそのストーリーの元祖はロミオとジュリエットである。古代より悲恋物語はいくらもあるが、不条理が巨大であればあるほど流される涙の量も巨大であることを見抜いたシェイクスピアという男の天才によって元祖となったのである。統計を見たわけではないが、恐らくいかなる人種においても同情して涙を流す人が多数派ではないか。だからこそ同作は歴史をこえて名作と慕われ、英国人シェイクスピアは人間の普遍の本性をえぐりだしたユニバーサルな存在たりえているのである。ではなぜ涙を流すのが多数派か?偶然ではないならば、ここにこそ普遍的な(科学的な)理由があるはずだ。人類学においてヒトは生物である。あらゆる生物は生殖して増えることが存在理由に内包されている。したがって、人間もそれにポジティブに行動するように造られているからだというのが僕の結論だ。反対にそれを抑え込み、時に人間の尊厳を踏みにじる政治というものは往々にして人間の本性に反しており、アンチリベラルで不純だと考えるように我々は造物主によって設計されているとも言えまいか。
バーンスタインは造物主の意向に添った人間だった。少なくとも僕の目にはそうだ。なぜなら僕自身もそうだからである。長いものに巻かれない。造物主は絶対であって長いものではない。具体的にどういうことかといえば、生物だから生殖して増えないといけない側にポジティブだと思われる行動を積極的にとり、反ファシズム、人種差別への反対、平和主義、社会的弱者への共感を公に表明し、市民の自由、表現の自由、社会的平等を重視し、戦争や軍事介入に批判的な立場にある。実際に彼は共産主義者と指摘され「赤狩り」の対象にまでなったが、いかなる共産党員でもなく、ソ連型共産主義とは距離があり、翻って自由主義である自国社会の矛盾に対しても批判的であるアメリカのリベラル・進歩派だった。持って生まれた資質もあろうが、移民の中でも欧州の主流派でなく、経済的に底辺にあり、宗教的にもマジョリティではないロシア系ユダヤ人であったことが思想構築の底流にあったのではないかと想像される。
ちなみに僕は高市政権支持者であるが、自民党支持の岩盤保守とはほど遠く、むしろリベラルな立場の人間であって自民候補者に投票しなかったことは何度もある。しかし日本のリベラル、いわゆる左はアメリカのリベラルではないものが濃厚に混入してしまっていて、僕がそのシンパになる可能性はゼロだ。左に親和性ある者が一部にいるという自民党ご自慢の「ウイングの広さ」など汚染以外の何物でもない。しかしそんなものは切除手術をすれば済むのだからまだかわいい。それが理由で反自民なわけではなく、江戸時代から固定された前近代的で農村的、非都会的なものに依拠する「本質的に自民党的なもの」が嫌いで破壊衝動すらあるためなのである。これは切除困難だろう。高市氏の人間性の奥底にそれがあるかどうかは存じ上げないが、少なくともこれまで観察した限り氏の言動と政策はそのような自分の目に抵抗がないという意味で安倍晋三氏とも異なっており、知る限り、自信をもって「違和感がない」と公言できる日本に現われた唯一の政治家である。
日本と米国の国情の違いからも僕がバーンスタインのような人間であるということはないが、両国の差分を除去して煮詰めれば自然に理解できるところが多い人間と思えるぐらいの親和性はある。客観的に見て、このような人物がアメリカという巨大な国家で政治的にマジョリティであることは、イスラム教徒がニューヨーク市長になる昨今ならともかく、国家が反共に振れた中で赤とみなされた彼が頭角を現した1950~60年では不可能に近い。それができてしまったのは、彼が所属していたユダヤ人という集団の政治的、経済的影響力、そして彼が持って生まれた稀有の音楽能力による。彼はリベラルで清純で奔放で不屈に音楽に恋をし、多くの人は一も二もなくその私情なき恋に同情し、感動し、それを妨げるならばアメリカという政治は汚いと感じた。だから彼はトークンとなるマーラー交響曲全集をひっさげ、ニューヨーク・フィルハーモニーに君臨し、恋を実らせることができたのである。
そのバーンスタインの人間性、生き様に共感がある僕にとって、彼がウエストサイド・ストーリーのプロットに夢中になり、予定調和的楽観主義を批判するキャンディードにも同時に熱中したことは思想的にいたって自然なことだ。人種的劣位にあるプエルトリカンのための音楽に情熱がこもっているように聞こえ、その集団のシンデレラであるマリアを白人のトニーが讃える歌の信じられないほど精妙でロマンティックな和声はその証拠にも聞こえて感動するのである。高市早苗氏の現在は当初のバーンスタインのそれだ。江戸時代から固定された前近代的で農村的、非都会的なものに依拠する「本質的に自民党的なもの」が嫌いで破壊衝動すらある僕が氏に共鳴するのは、氏もそれを持っておられる、もしかして目的ではないかもしれないが本来の目的を達成するには必要だという三段論法において持っておられると確信するからだ。今年の2月。僕のみならず日本国民もが「自民党的なもの」に反感をたぎらせていたという時宜を得た衆院選大勝だった。石破政権へのあきれと憎悪で支持者が7割もいたことは神が彼女に与えた時の運であり、バーンスタインが新星として古いアメリカをぶっこわし親交を結んだJFケネディが1961年に大統領になったそれと重なる。
ミュージカルの映画版をご覧いただきたい。製作はまさしくその1961年だ(ちなみに僕は6歳、バスケットコートにチョークで絵を描いてる女の子と同じぐらい)。それでいて古さを感じさせない、これぞ永遠に新しいカッコよさのアイコンのような作品であり、何度見ても泣けるのはこれとラ・ボエームだけだ。シェイクスピアと同様に、こういうものを言葉の真の意味で classic と呼ぶのであって、ミュージカルがクラシックかどうかなど底辺のインテリがこだわりたがる巷の議論と混同してはいけない。ともすれば稚拙に陥るアメリカのエンターテインメントではあるが、一部の作品にみる研ぎ澄まされた底力を見る。何度でも書くが、神経と毛細血管まで慰撫する官能的な和声ひとつとっても、こりゃあバイセクシャルじゃなきゃできないかなあなんてことまで思ってしまう異質の領域に君臨する作品だ。ちなみにこのフィルムを唯一無二にまで高めているマリア役は、本作をステップに後に大物女優となる23歳のナタリー・ウッドだ。
ナタリー・ウッド。本名はナタリア・ニコラエヴナ・ザハレンコ(Natalia Nikolaevna Zakharrenko)である。気質は全くのロシア人よと本人が語っているように、父はウラジオストック近郊、母はシベリア南部の出身だ。つまり西欧の人ではなくユーラシア大陸の右半分の血筋であり、スラブ系なのかアルメニア系なのか知らないが西欧人の目にはプエルトリカンの「シャークス」でおかしくないエキゾチズムを放つ美しさゆえの抜擢だったのかもしれない。2人いる夫は西欧ど真ん中のドイツ系、英国系で両方との間に娘がいる。かようにアメリカ人という人たちは、捨ててきた人種的母集団の政治などというものには目もくれず自由に恋愛して混血して不思議でもなんでもないという、悲劇に終わらないロミオとジュリエットたちの国であり、紛れもない人種のるつぼであって、平均的日本人の感覚からは非常に遠い。これが時代だ、アメリカがそうなのだからといって、日本人も人種的母集団は捨てて野放図に移民を入れろという政治は、国民的反感を買って高市政権誕生の布石にさえなったLGBTの強引な導入とまったく同様である。肌感覚からして無理なのだ。
ナタリー・ウッドが夫と共演者クリストファー・ウォーケンとでヨットに乗ってロサンゼルス沖で行方不明になり、翌日にサンタカタリナ島の入り江で溺死体となって発見され全米が騒然となったのは、僕が留学準備であちらのニュースに敏感になっていた1981年11月のことだった。自殺か他殺かは未だ謎で未解決事件とファイルされるが、僕の中では今もって未解決であること自体が釈然としない。結局最後の作品となってしまうSF映画『ブレインストーム』の撮影中であり、しかも最後の仕上げを残す所までは完成していたからだ。自ら命を絶つには大女優の人生のエンディングとしてあまりに禍根を残す間の悪いタイミング、シチェーションであり、いっぽう、そんなことすら気にできないほど精神が錯乱していたなら、そこまでのフィルムに残った姿は演技とはいえ不自然に平静である。現にロサンゼルス警察は自殺ではなく、新証拠もみつかったという理由で殺人事件で立件しようとつい最近に再調査を試みた(証拠は特定できず)。これをご覧いただきたいブレインストーム (映画) – Wikipedia
ナタリーの死によりMGMは映画は完成不能と判断して弱気になったが、撮り残したいくつかのコマを妹の姿を使って完成することで資金調達に成功し、1983年に公開にふみきった。 1800万ドルの経費に対し1000万ドルしか収入は得られず興業的には失敗となったが、『2001年宇宙の旅』、『未知との遭遇』、『スタートレック』、『ブレードランナー』を手がけた名匠ダグラス・トランブル監督の作品であり、二度とMGMの監督はしたくないほど困難と苦痛に満ちたものだったようだが映画そのものは秀作である。私見ではあの『マトリックス』の実験的先駆となったばかりか、クライマックスは今日のAIの暴走を予言するようで手に汗を握るばかり。エンディングでウォーケンの演じるマイケルが、死亡した同僚リリアンが残した死後の世界のテープに記録された「死の体験」を看るシーンで現れる天使の乱舞する映像はリアルで、 “なにやらやばいものを見てしまった気分” に襲われさえするのである。倒れこんだマイケルの名を懸命に叫んで抱き起こすナタリー。銃で撃たれたトニーの亡骸を泣きながら抱きしめるマリアの姿が幻影となってまぶたに浮かぶのは僕だけだろうか・・・。
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